月刊誌 原子力文化 インタビュー

原子力文化2019年2月号 インタビュー(抜粋)

国民を守るために
― 脅威の対象が自然か人かだけ ―

「災」が一年を象徴する漢字として選ばれたように、平成30年は日本列島が災害に見舞われた年でもありました。 そのような中、被災地で救助や復旧に黙々と勤しむ自衛隊員の姿は国民の目に印象深かったと思います。 東日本大震災で、自衛隊のオペレーションを担われた元陸上幕僚長の火箱さんにお話を伺いました。

元陸上幕僚長
火箱 芳文  氏 (ひばこ・よしふみ)

1951年福岡県生まれ。三菱重工業株式会社顧問。74年防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。北部方面総監部幕僚長兼札幌駐屯地司令、中部方面総監などを経て、2009年第32代陸上幕僚長に就任、11年に退官。全日本柔道連盟理事なども務めている。著書に『即動必遂』(マネジメント社)がある。

―― 1995年の阪神・淡路大震災では、県知事や府知事の要請がなく、自衛隊を出せなかったという話がありました。首長の要請から、というのは今も変わっていないのですか。

自衛隊の災害派遣は、災害の発生時の応急的な救援活動です。都道府県知事等の要請に基づく派遣と、事態に照らし要請を待ついとまがない場合の自主派遣の2つがあります。当時も要請による派遣と自主的派遣があるにはありました。ただ、あの頃は、自衛隊が災害救助に出ると「戒厳令」というようなイメージがあり、自治体の中にはなかなか踏み切れない背景があったのです。
自衛隊には「いつでも出ますよ」という気持ちはありましたが、自治体との連携がその頃は全く行なわれていないところもありました。自治体側にも「要請をどうやればよいか」という話もあったようですね。
今なら手続きも簡略化され電話一本ですが、当時はそれもなかった。自衛隊側としても「要請がないと出動してはいけないんだ」と、そのくらいの認識でした。

 

―― 自衛隊は、阪神・淡路大震災のときは、初動で165人しか助けられなかったが、東日本大震災では19,286人を助けることができた、と言います。この違いは何なのでしょうか。

被災地の交通が渋滞する前に、部隊がすぐ現地に入っていけるか否かということが重要だと思います。
阪神・淡路大震災の後、災害対策基本法も大きく変わり、自衛隊内でも自主的派遣の判断基準として「こういう場合は出てもいい」という防災業務計画が修正されました。それから、国の方針も災害救援活動の円滑な実施のため、緊急車両の通行確保など、必要な権限が自衛隊にも認められました。当時は災害派遣のときの緊急車両はまだ認められてなかったのです。警察の車両も同じです。それが阪神・淡路後、警察は「災害のときには緊急車両の通行を確保するため放置車両や建物等を除去してもよい」となり、大きく変わりました。
自衛隊もそれに準ずるということで、災害時、自衛隊車両は緊急車となり、現場にスムーズに入っていけることになりました。道路沿いに放置車があると、それは個人所有品であり、許可なしでは除去、移動させることもできなかったのです。

 

 

(一部 抜粋)




2019年2月号 目次

 

風のように鳥のように(第110回)
加湿器を出す/岸本葉子(エッセイスト)

インタビュー
国民を守るために/火箱芳文(元陸上幕僚長)

追跡原子力
・尺八の音を乗せボイジャー2号が行く
・原子力を知ることから始めよう

中東万華鏡(第35回)
アラジンと魔法のランプ/保坂修司(一般財団法人日本エネルギー経済研究所 研究理事・中東研究センター 副センター長)

おもろいでっせ!モノづくり(第74回)
NHK本社を東西持ち回りにしたらどうです?/青木豊彦(株式会社アオキ取締役会長)

ドイツでは、今(第8回)
サービスできないドイツ人の「正論」とサービス過剰な日本人の「言い分」/川口マーン惠美(作家)

笑いは万薬の長(第55回)
食文化/宇野賀津子(公益財団法人ルイ・パストゥール医学研究センターインターフェロン・生体防御研究室長)

交差点

ページの先頭へ戻る