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中立からの脱却を

越智 小枝 氏

東京慈恵会医科大学・臨床検査医学講座講師

「私たちは“フラット”な立場で来ました」
「“主観を交えず”ご意見を伺いたい」
福島第一原発事故の後、現地を訪れる方々からそういう言葉をよく聞いた。公平・公正であろうという気持ちは理解できたものの、当時相馬で暮らしていた私は「その気持ちは住民には伝わらないのでは」と感じていた。端から見れば明らかにエネルギーという看板を背負っている方が、いくら「フラット」で「主観を交えない」対話を提案しても、住民には信じられないだろう、と思ったからだ。
本来中立とは他者に判断を委ねるものであり、大勢の目に偏って見えればそれは中立ではない。その中立を「フラットな立場」と自己規定して訪れる人々は、主観を交えず、と言いつつ住民の主観も拒絶しているように見えた。
当たり前のことではあるが、他者の理解を得るために大切なことは、自分がどう考えるかではなく、相手から自分がどう見えているのか、である。しかしエネルギー業界では、中立に拘って自分を消そうとするが故に、むしろ自己の客体化ができていない、という場面をよく見かけるように感じる。
エネルギーの世界において、対外的中立は、恐らく重要な職業文化であろう。科学者が偏ったイデオロギーに振り回されたために科学が戦争利用された、という戦後の反省から生まれたその職業文化を、私は尊敬している。しかし一歩外に出れば、社会には様々に偏った感情や思想が渦巻いている。中立を保ち、感情や思想に左右されまい、とするエネルギー関係者の姿勢は、そのような外界の偏見に対しても無関心な文化を醸成してしまったのではないか。
「加害者である企業と被害者である住民に対して中立的な第三者の立場に立つというポーズをとる科学者や技術者が、故意にではなく、加害者の側にくみするようになるのは、なぜか…。私が科学批判を主張する主たる理由は、科学主義が科学を科学する主体から切り離し、科学の成果が逆に人間に敵対しその生き方だけでなく生存自体をもおびやかすという逆説を見ようとしないからである。」(藤田慎吾 『なぜ科学批判なのか』)
30年以上前に書かれたこの言葉は、そのまま現代にも当てはまるだろう。複雑化した今の社会には、「不戦」のような絶対善は存在しない。平和を謳う活動がかえって事故や災害、環境破壊、さらに貧困や格差社会も生み得ることを、我々は既に知っている。
その中でも何らかの決断を下さなくてはいけない以上、頼れるものは善悪という「主観」だけだ。もし中立に拘りすぎれば、偏りを持たない故に行動せず、行動をしない故に批判も反省もなく、無益どころか有害な結果をもたらし得るだろう。「科学する主体」である我々にできることは、科学の加害性を知りつつも自分の価値観に従い、その中で可能な限り人を害さない、という程度のことなのかもしれない。
たとえば私の携わる医学において、「科学する主体」である医療者は、毒になり得る薬を用い、人体に刃物を立てて人の命を救おうとする。しかしその時、リスクを負うのは医療者ではなく患者である。常に加害者となる可能性を孕んだ医療者が万人にとっての「絶対善」にはならないことを、多くの医療者は自覚している。
同様のことがエネルギーにおいても言えるだろう。武器になり得るエネルギーを利用して、平和を達成する矛盾を選択した時から、エネルギーを扱う主体は常に加害の可能性を内包している。そしてリスクを負うのは業界ではなく、住民である。そう考え得れば、エネルギーが万人にとって有益となることはあっても、万人にとって善となる世界は来ないのではないか。
この加害性は原子力に限らない。福島県小高市のある住民は、今年の常磐沖における不漁を「自然からのしっぺ返し」と嘆く。
「除染と岸壁のかさ上げの為に山を削り、木を切り、山、川からの恵みが海に届かない。メガソーラー(の敷地に)は、たくさんの除草剤をまく。これは当然予想された結果。」
原発に強く反対する方から見てさえ、除染と再生エネルギーは絶対善ではない。そして、エネルギー関係者は、例外なくこれらの弊害の関係者と見られ得るのである。
福島第一原発事故の後、原子力への国民理解を得られない、という悩みをよく耳にする。多くの場合、この無理解は国民のリテラシー、感情論、イデオロギーなどに帰されているようだ。しかし、そこには自己客観視が圧倒的に欠けているのではないだろうか。事故の後、住民の悩み・苦しみや被災地の現状につき、詳細な報告がされてきた。しかし「住民から我々がこう見えた」「我々の行動が住民にこのような影響を及ぼした」という自省的記録は、未だ乏しい。
年々複雑化、多様化する社会の中で、エネルギー関係者だけが偏りを免れ、フラットな立場に立つことは不可能だ。中立という安全地帯に逃げずにその事実と向き合うことこそが、今のエネルギー界には必要ではないだろうか、というのが私の愚考である。

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