原子力総合パンフレット Web版

原子力開発と発電への利用

原子力開発の歴史

原子力発電の歴史の始まり

人類は、19世紀末から原子の構造や性質などを徐々に明らかにし、20世紀に入ってから原子力開発の歴史が始まりました。

矢印

原子論の提唱

今から2400年ほど前
ギリシャの哲学者デモクリトスは、
「この世のすべてのものは、小さな粒からできている」と考え、
これ以上分けることができないという意味のギリシャ語「アトモス」に由来して、
この小さな粒を「アトム(原子)」とよびました。

原子の構造

原子の構造

原子の構造

1895年

エックス線の発見

真空放電の実験をしていたドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンは、目に見えないが、写真乾板を感光させ、蛍光物質を光らせ、物質を突き抜ける光のようなものが放電管の電極から出ていることを発見しました。正体は未解明であることから、レントゲンはこの光のようなものを「未知のもの」という意味でエックス線と名づけました。

  • ヴィルヘルム・レントゲン

    ヴィルヘルム・レントゲン

1896年

新たな放射性物質(ポロニウム、ラジウム)の発見

フランスの物理学者アンリ・ベクレルが、ウラン化合物から放射線が出ていることを発見しました。
この研究を引き継いだ物理学者マリー・キュリーは、夫の化学者ピエール・キュリーとともにウラン鉱物から放射性物質を分離する実験に取り組み、ポロニウムとラジウムという新たな放射性物質を発見しました。

  • アンリ・ベクレル

    アンリ・ベクレル

  • マリー・キュリー

    マリー・キュリー

1898年
1900年

アルファ線、ベータ線、ガンマ線の発見

1898年に、イギリスの物理学者アーネスト・ラザフォードが、ウランからエックス線とは別の2種類の放射線が出ていることを見つけました。
1900年に、フランスの化学者ポール・ヴィラールも、新たな放射線を発見しました。
これらはラザフォードによって、アルファ線、ベータ線、ガンマ線と名づけられました。

  • アーネスト・ラザフォード

    アーネスト・ラザフォード

核分裂の発見

1902年

ウランの壊変の発見

ラザフォードは、ウランがアルファ線(ヘリウムの原子核)を放出して別の原子に変わることを発見しました。

1905年

質量とエネルギーの等価関係

ドイツ出身の物理学者アルバート・アインシュタインが発表した特殊相対性理論のなかで、 「E=mc2」(E:エネルギー、m:質量、c:定数(光の速度))という質量とエネルギーの等価関係が導き出されました。

1911年

原子核・電子の存在の実証

ラザフォードは、原子のほとんどの質量が中心の小さな領域に集中していることを明らかにし、この小さな領域はプラスの電荷をもち、その外側には非常に軽いマイナスの電荷をもつ電子が存在するだけであることを実証しました。

1919年

別の原子に変える実験の成功

ラザフォードは、ある原子を人工的に別の原子に変えられることを証明しました。
これを受け、多くの科学者がさまざまな原子に中性子などの放射線をあてることで別の原子に変える実験を行いました。

1932年

中性子の発見

イギリスの物理学者ジェームズ・チャドウィックが、中性子を発見しました。これを受け、ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクは、原子核が陽子と中性子で構成されていると考えました。

  • ジェームズ・チャドウィック

    ジェームズ・チャドウィック

1935年

中間子の存在の予言

原子核の研究が進むなか、日本の物理学者である湯川秀樹は、原子核の中で陽子と中性子を結びつける中間子の存在を予言し、後にそれが実際に確認され、1949年に日本人として初めてノーベル賞を受賞しています。

1938年

核分裂の発見

ドイツの化学者オットー・ハーンとオーストリア出身の女性物理学者リーゼ・マイトナーは、中性子をあてたウランから放射性のバリウムが生成されることを発見し、マイトナーは、ウランの原子核が中性子を吸収してほぼ同じ大きさの2つの原子核に割れたと結論づけました。これが「核分裂の発見」という歴史的なできごとでした。
アルバート・アインシュタインの「E=mc2」(E:エネルギー、m:質量、c:定数(光の速度))という質量とエネルギーの等価関係から計算される値とマイトナーの考察は、一致し、ウランの核分裂によって膨大なエネルギーが出ることも推論されました。

原子爆弾、原子力発電への利用

1939年

核分裂で生じる中性子の数の測定

イタリアの物理学者エンリコ・フェルミは、核分裂によって中性子が新たに放出される可能性が非常に高いことを指摘しました。
また、キュリー夫人の娘夫妻であるジョリオとイレーヌ・キュリーが核分裂によって生じる中性子の数を測定し、2個〜3個であることを示しました。

  • エンリコ・フェルミ

    エンリコ・フェルミ

1942年

核分裂連鎖反応の実証

研究は、核分裂の連鎖反応を証明する段階となり、アメリカ政府の資金によってフェルミが指揮をとり、最初の原子炉の実験計画が1942年半ばに始まりました。
そして、1942年12月2日、シカゴ大学フットボールスタジアムの下のスカッシュ競技用コートに設置された原子炉で臨界実験が行われました。この原子炉は、燃料のウランを減速材の黒鉛ブロックで取り囲んだもので、実験は成功しました。うまく条件を揃えさえすれば、核分裂連鎖反応を起こすことが可能であると実証されました。
しかし、これは世界に先駆けて原子爆弾をつくろうとするアメリカの計画の一部でした。1939年にナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発すると、アメリカは陸軍の管理下で極秘に原子爆弾の開発を進めることとしました。そして、1942年6月に、後に「マンハッタン計画」とよばれることになる原子爆弾製造の計画が始まっていたのです。

  • エンリコ・フェルミらによる最初の原子炉臨界実験

    エンリコ・フェルミらによる最初の原子炉臨界実験

1953年1955年

原子力平和利用の推進

世界での原子力利用は原子爆弾という形で始まりましたが、アメリカは1953年〜1954年にかけて、原子力の軍事利用と並行して平和利用も推進する方針を打ち出しました。1955年にはアメリカのアイゼンハワー大統領が、国連総会で原子力平和利用の推進をよびかける演説「アトムズ・フォー・ピース」を行いました。

  • 国連総会で演説をするアメリカのアイゼンハワー大統領

    国連総会で演説をするアメリカのアイゼンハワー大統領

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